葉山にある「鐙摺城址」は、富士山が見える隠れた絶景スポット

投稿日:2019年4月29日 更新日:

暑い日が続くと思ったら急に寒くなったGW前……逗子の駅から鐙摺城址を目指して歩いてきました。

鐙摺城は、葉山にある平安時代末に築かれたといわれる小さな城です。

鐙摺城は、頼朝が挙兵したときから味方していた三浦氏が築いたといわれ、三浦義明の三男の大多和義久の城だったそうです。

鐙摺城址(鐙摺山・旗立山)

鐙摺城(あぶみずりじょう)がいつ頃に建築されたかは不明ですが、三浦義明が建築したそうです。

三浦義明の息子の義澄は、頼朝挙兵からの主力武将の一人として、後には鎌倉幕府の有力御家人の一人となり、十三人の合議制にも名を連ねています。

 

葉山町教育委員会が立てた看板によれば、鐙摺という名前の由来は、頼朝が山に登った際に馬の鐙が摺れたことからとのことです。

鐙摺城があった山は、別名、鐙摺山、旗立山、軍見山などとも呼ばれます。

 

山は高さ25mほどしかありませんが、山の頂上からは葉山マリーナと海が一望でき、天気が良ければ富士山も望めます。

 

 

新逗子駅から鐙摺城址までの今回のルート

京浜急行線の新逗子駅から鐙摺城址までは、約2キロの距離なので、徒歩で30分くらいです。

京浜急行線の新逗子駅南口

 

新逗子駅前の道を南下して、「田越橋」を右折した後は川沿いに進みます。

田越橋を右折した後は、川沿いに沿って15分くらい歩きます。

すると、「渚橋」交差点に出るので、この交差点はそのまま突っ切ります。

渚橋交差点を越えて10分ほど道なりに歩くと、「鐙摺葉山港入口」という交差点がありますが、この交差点を越えて少し歩いた先にあります。

交差点を越えて少し歩くと、右側に「葉山日影茶屋駐車場」がありますが、その駐車場の裏山が鐙摺城址(旗立山)です。

 

所在地 神奈川県三浦郡葉山町堀内

京浜急行逗子線「新逗子駅」から徒歩30分

鐙摺城址には、駐車場が有りませんが、小浜海岸(逗子方面に歩いた先の海岸)の近くにコインパーキングがあります。

 

三浦胤義遺孤碑

鐙摺城址に行く前に、新逗子駅の北口近くにある「三浦胤義遺孤碑」に行きました。

三浦胤義遺孤碑は、逗子市役所から図書館に向かう道にある踏切を越えたらすぐ右にあります。

 

三浦胤義は、源頼朝が挙兵した時に一族をあげて味方した三浦義明の孫で、三浦義澄の子です。

胤義の母は頼朝を監視した伊藤祐親の娘の一人です。

承久3年(1221)に起こった承久の乱で、三浦胤義は後鳥羽上皇側に味方し、兄の義村にも上皇側につくように勧めました。

しかし、義村はこのときの密書を北条義時に届けて義時に味方することを伝えます。

上皇側と義時側のどちらにつくか揺れる御家人に対し、北条政子は有名な演説をして御家人に訴えました。

「皆心を一にして奉るべし。これ最期の言葉なり。故右大将軍、朝敵を征伐して幕府を草創してより以来、汝らが賜りたる官位といい、俸祿といい、其の恩既に山嶽よりも高く、海よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今、逆臣の讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの輩は、早く秀康、胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。ただし京側に參らんと欲する者は、ただいま申し切るべし。」

 

おかげで上皇側が期待した幕府軍の離反はなく、大軍の幕府軍は京都に攻め上り上皇側を圧倒しました。

これにより胤義は自刃し、後鳥羽上皇ら三上皇は島流しとなって、六波羅探題が設置されました。

 

胤義の幼い5人の子は、年長の豊王丸を除いて田越川の河原で処刑されたそうです。

三浦胤義遺孤碑

 

三浦平九郎胤義遺孤の碑由来

「承久三年(1221)後鳥羽上皇は鎌倉執権北条義時を討伐しようと兵をあげられた。このとき三浦義村は幕府方に、弟の三浦胤義は上皇方にと、兄弟敵味方に分かれて戦った。上皇方が敗れて胤義は死に、十一歳を頭に幼い五人が衣笠矢部の祖母のもとに養われていたが、十一の子をのぞいて九歳、七歳、五歳、三歳の四人の男の子が義村の郎党小川十郎によってここ田越川原に切られた。

嘉禄元年(1225)九月、北条泰時は三浦義村と共にこの地を訪れ、弁僧正や門弟をして八万四千基の石塚を建てて跡を弔ったという。いまはそれもほろびてしまってあとかたもない。

大正十二年石橋敏明氏が建てられた碑がわずかに昔を語っている。」

 

 

鐙摺の不整合

「渚橋」の交差点を越えて少し進んだ右側には、「鐙摺の不整合」と呼ばれる地層を見れます。

鐙摺の不整合

「ここは三浦半島で一番古い層の上に、これより若い逗子層が傾斜不整合の関係で重なっている露頭で、「鐙摺の不整合」として、古くから知られているところです。

右下方から左上方に向ってみとめられる凹凸に富んだ不整合面を境として、逗子層は北に緩く傾いているが、葉山層はほとんど垂直に近い傾斜を示していることから、葉山層堆積後、逗子層堆積前に大きな地殻変動のあったことがうかがわれ、関東地方の生いたちを知る上で貴重な資料とされています。

不整合面のすぐ上には、葉山層の砂岩・泥岩などの礫からできている基底礫岩がみとめられ、ミウラニシキその他の貝化石が多数含まれています。」

 

鐙摺の不整合を示す露頭

鐙摺の不整合の解説

 

鐙摺城址から見える景色

「鐙摺葉山港入口」の交差点を越えると、右側に葉山日影茶屋駐車場があります。

日影茶屋は、江戸時代からある葉山の料理屋で、大正時代に出版された「逗子八景 葉山の史蹟」でも葉山の名勝として紹介されてます。

 

駐車場の横にある細い道の先には、階段が設置してあって、鐙摺城址へは階段を上っていきます。

階段は道路沿いから見えます。階段の途中の通路が細くて意識しないと気付かないかもしれませんが、通って階段に行けます。

 

階段を上った先の道は、雨上がりは細くて少し滑りやすいかもしれません。

 

道は細いです。

 

階段を上ると広場のようになっています。山頂は狭かったので、城も小さかったのでしょう。

 

城址からの眺めは素晴らしく、富士山と江の島が見事でした。

 

葉山マリーナと伊豆半島

 

丹沢の山もハッキリと見えました。

 

城址には、伊藤祐親の供養塚がありました。

「伊藤祐親には、娘が4人あった。長女は相模の三浦義澄の妻になり、次女ははじめ工藤祐経に嫁いだが、のち取り帰されて土肥遠平に再縁した。三女と四女は、まだ父のもとにいた。

源頼朝は既に十三歳のとき伊豆の国へ流されたが、伊東、北条の両人を頼みに暮らしていた。

三女は、美人の名が高かったので、頼朝はそれを知って、つれづれのなぐさめとしてひそかに通ううち、男子が生れた。頼朝はおおいに喜んで、その男子に千鶴御前という名をつけた。伊豆は、源氏にとっては祖先が往来した地であり、かつて部下が住んだ国である。平家全盛の世に、雌伏している頼朝ではあったが、このたび男子が生れたことは、流人の身に、ひとしおうれしく感じられた。千鶴御前、三歳の春、伊東祐親入道は大番勤めを終って京から伊東へかえった。しばらくは千鶴御前の事を知らされませんでした。ある夕方、庭苑の築山で遊んでいた千鶴御前の姿を見て妻に尋ねた。頼朝が通った三女にとっては継母だったので、いい機会とばかりに、愚かしい言い方で、伊東祐親入道に頼朝と三女との間の子で、貴方の孫御前ですと告げた。伊藤祐親入道は、大いに腹を立て、「娘が多すぎて置き場がなければ、乞食にでもやるが、いまどき、源氏の流人を婿にするなどは、まっぴらだ。もし平家にとがめられたら、なんとしよう。毒虫は頭をくだけ、かたきの子は殺してしまえ、とは古語にもいっていることだ」

こうして郎党をよびよせ、千鶴御前を誘いだし、伊東の松川の上流の淵に柴漬けにしてしずめた。しかも、その三女を奪って、同じ伊豆の江間ノ小四郎に嫁がせた。さらにそのうえ、頼朝を夜討ちにしようとして、郎党どもをあつめた。しかし、伊東祐親入道の二男、九郎祐清が事情を話し、ひそかに北条の方に逃れるように進言した。源氏の時代になってから、伊東祐親入道は、かって頼朝に不信をはたらいたかどで、ついに生けどりになって、婿の三浦介義澄にあずけられた。三浦介義澄は、伊東祐親入道の長女を、妻にしていたのである。

前の罪をのがれがたく、伊東祐親入道は、三浦の鐙摺というところで、首をはねられた。」

 

まとめ

鐙摺城址は、富士山と江の島を一望できる隠れた絶景スポットでした。

新逗子駅から2キロほどしかないので、徒歩でも行けます。

 

山に登って中世の歴史に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

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