「鎌倉宮」建武の親政で活躍した大塔宮護良親王を祀る神社

投稿日:2019年11月19日 更新日:

鎌倉市二階堂にある鎌倉宮(かまくらぐう)をご存知でしょうか。

 

明治2年に明治天皇の勅旨によって造営された「鎌倉宮」は、後醍醐天皇の皇子である大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししんのう)を祀っている神社です。

明治6年には、明治天皇の行幸があり、官幣中社(社格)に列せられました。

 

護良親王は建武の親政で活躍しましたが、足利尊氏と対立して敗れてしまい、身柄を拘束されて鎌倉に送られます。

そして、約9カ月の間、東光寺の土牢に幽閉された後、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されました。

鎌倉宮は東光寺の跡地に建設されたとされており、鎌倉宮の奥には護良親王が幽閉されていたという土牢が復元され、見学ができます。

大塔宮護良親王を祭る鎌倉宮と護良親王の歴史

鎌倉宮について

・御祭神 大塔宮護良親王

・御創建 明治二年、明治天皇の勅命に由る

・御祭礼 八月二十日

 

鎌倉宮を訪れた日は、少しだけ葉っぱが色づいてました。本格的な紅葉が見れるようになれるのはあと数週間といったところでしょうか。

 

 

護良親王は、幼少の頃から英邁にしてご聡明といわれ、20歳で比叡山延暦寺の天台座主に就いたそうです。

 

後醍醐天皇が元弘元年(1331年)8月に鎌倉幕府の討幕に失敗して隠岐の島に流されると、還俗した護良親王は反幕府勢力を募って幕府に抵抗しました。

吉野で幕府軍の二階堂貞藤と戦った時は、自害を覚悟したといわれていますが、臣下の村上義光が親王の甲冑を着て身代わりとなり、その隙に親王は高野山へと逃れました。

 

なお、このときに親王の身代わりとなった村上義光を祀った社が境内にあります。

 

元弘3年(1333年)に隠岐の島を脱出した後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対する討幕の綸旨を発し、これに応じた足利尊氏、赤松円心らによって六波羅探題は攻め落とされました。

約1か月後、護良親王の令旨を受けた新田義貞は、稲村ケ崎を迂回して鎌倉に入り、北条氏を東勝寺に追い詰めて鎌倉幕府を滅ぼしました。

 

鎌倉幕府の実質的な最高権力者であった北条高時は、一族と共に東勝寺で自害したといいます。

 

これにより天皇の親政が復活(建武の親政)すると、護良親王は征夷大将軍に任じられました。

この後、足利尊氏の野心を見抜いた親王は尊氏と対立しますが、尊氏との対立を避けた後醍醐天皇によって拘束され、身柄を引き渡されます。

鎌倉宮には、足利尊氏の謀略によって親王は幽閉されたとあります。

 

親王は、鎌倉に送られて東光寺に幽閉されることになります。

建武2年7月に北条時行が幕府再興の兵を挙げて鎌倉に攻め込むと、時行が親王を奉じることを恐れた足利直義は、淵辺義博に親王を討つよう命じました。

義博に襲われた親王は抵抗しましたが、9カ月の幽閉生活によって体力や筋力が落ちており、最後には討ち取られてしまい28歳の生涯を閉じました。

 

太平記には、義博に襲われた際、親王は刀を歯で食い止め、刃を噛み折って抵抗しましたが、最後には討ち取られてしまったとあります。

義博が親王の首を持って去ろうとすると、親王の首は義博を睨みつける形相をしており、恐ろしくなった義博は首を放り投げてしまったそうです。

「御構廟」この場所は、淵辺義博が護良親王の首級を置いて逃げ去ったと伝わっている場所です。

 

明治2年2月、明治天皇は、維新の大業があったのは護良親王のご遺徳によるものだとして、勅命をもって鎌倉宮と社号を定め、建物を造営しました。

 

 

鎌倉宮では、毎年10月に境内で薪能が催されます。

 

 

鎌倉宮の境内

「鎌倉ものがたり」の足跡板で鎌倉薪能が紹介されてました。

薪能は10月初旬に行われます。

鎌倉ものがたりは、鎌倉を舞台にしたまんがですが、馴染みの場所が舞台なので時々買っては読んでます。

 

階段を昇ると右手に舞姫というサクラが植えてあります。

舞姫は日本花の会桜見本園にある八重紅枝垂に実った種子から生まれたそうです。

 

この先は鎌倉宮の社務所になります。御朱印やイベントの手続きの受付です。

 

「御手植の梅」

護良親王の弟宮にあたる征西大将軍懐良親王のお手植えの梅から実生したもので、九州八代から移植したものだそうです。

 

「亀若丸」

亀をなでて、折り鶴を持ち帰ると健康にご利益があるそうです。

 

鎌倉宮の拝殿です。拝殿の後ろに本殿や村上義光を祀る村上社があります。

 

 

 

護良親王の土牢、宝物殿

護良親王の土牢、御構廟、神苑、宝物殿は300円の有料となっています。

 

 

拝殿の横が、鎌倉宮宝物殿の拝観コースの入口になっています。

入口前に授与所があるので、そこで拝観料を払います。写真は拝殿を横から見たところです。

 

あじさい散歩道の紅葉。葉っぱが少しだけ色づいてましたが、見頃までは少し待つことになりそうです。

 

こちらが鎌倉宮の本殿になります。本殿前では巫女さんが仕事を教わってました。

 

護良親王が幽閉されいていたという土牢です。復元したものだそうです。

 

「鎌倉宮碑」

明治天皇が創建にあたり太政大臣三条実美に語られた言葉を記した碑です。

 

神苑です。

神苑とは、神社の境内とか庭園のことをいうそうです。

 

教育勅語・五箇条の御誓文の碑

 

説得して

宝物殿にある護良親王の像。

光の反射で宝物が見にくかったです。

 

鎌倉宮の場所

所在地 神奈川県鎌倉市二階堂154
交通 JR「鎌倉駅」からバス「鎌倉宮行き」終点下車

 

 

 

護良親王の墓

護良親王の墓は、鎌倉宮から少し離れた場所にあります。

鎌倉宮を出て、永福寺跡の遺跡近くから住宅地に入って行った先にあります。

 

鎌倉宮からだと10分かからないくらいです。

 

「護良親王墓と刻まれた石柱」この奥が護良親王墓です。

 

護良親王の墓は、この階段を昇った先にあるのですが、現在は台風による被害につき、立ち入らないよう書いてありました。

 

鎌倉宮のみどころ

鎌倉宮は、明治天皇の勅命によって明治2年に創建されました。建武の親政で活躍した後醍醐天皇の皇子・護良親王を祀った神社です。

境内の奥には、護良親王が幽閉されたとされる土牢や、淵辺義博が親王の首級を置き去ったと伝わる御構廟があります。

 

鎌倉宮の見どころを挙げると、護良親王の土牢と宝物殿です。

 

護良親王の墓は、鎌倉宮から500mくらい離れた場所にあります。

現在は立入禁止なので、行っても墓まで行けません。

 

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