相模国三浦の総鎮守「海南神社」

投稿日:2021年8月18日 更新日:

8月に帰省した際、実家にあったママチャリを借りて30度を超える猛暑の中、三浦市の「海南神社」へ行ってきました。

実家は横浜市の南部にあるのですが、そこから海南神社までは片道約35キロくらいの距離です。

 

ママチャリだと坂がきついので、坂がない平坦な道を行こうと思ったのですが、そんな道ありませんでした。

ママチャリは遅くて重いうえ、三浦市に入ると坂が多いので、神社に到着した時には疲れ果ててしまいました。

挙句の果てには途中からお尻が痛くなり、帰り道はお尻の痛みとの戦いでした。

三浦の総鎮守「海南神社」

三浦の総鎮守である海南神社の歴史は古く、平安時代の貞観にまでさかのぼります。

藤原資盈(ふじわらすけみつ)が筑紫(福岡)に向かう途中に暴風にあい、貞観六年(864)に三浦に流されます。資盈は、土地の者に推戴され、付近の海賊を平定したり、里人を強化して文化の基を築いたといわれています。

資盈の治績は二年でしたが、里人の尊崇が篤かったことから、祠が建立されました。

天元五年(982)に社殿が造営され、三浦の総鎮守として崇められてきました。

海南神社の祭神

藤原資盈・盈渡姫・筌龍弁財天・地主大神

海南神社は、筌龍弁財天を祀っていて、三浦七福神に数えられます。

 

海南神社の本殿

 

治承四年(1180)に源頼朝が挙兵した際に、いち早く味方した三浦氏は三浦一帯を治める豪族でした。

頼朝の挙兵に際し、三浦大介義明、義澄父子が神社に参詣して占ったところ、白と赤の狐が闘って白が勝った(神事狐合)ので源氏の再興を信じて頼朝に加担したという言い伝えがあります。

 

頼朝に加担した三浦一族は、衣笠城に立て籠もって畠山重忠らの軍勢と戦いましたが、落城して義明は戦死し、一族は房総に落ち延びます。

房総に落ち延びる際、暴風に襲われて漂流し兵糧も尽きたため、龍神に祈ってみたところ、筌(漁具)が流れてきたのでこれを使って魚を採って飢えをしのいだといいます。

鎌倉幕府が開かれた後、三浦一族の和田義盛は筌が昇天して龍になる夢を見て、この地に弁財天堂を建立しました。

 

源頼朝が植えたといわれるイチョウの木で神社のご神木です。

 

ここからは他の境内社も紹介していきます。

ウィルス除去、疱瘡退散といったご利益がある疱瘡神社です。祭神は鎮西八郎を称し、剛力無双とうたわれた源為朝です。

向かいには権五郎を祀る御霊神社があります。

 

食の神様を祀る相州海南高家神社です。先には大神宮があります。

 

金毘羅宮

 

海南神社へのアクセス

所在地 神奈川県三浦市三崎四丁目12-11
アクセス 京浜急行「三崎口駅」または「三浦海岸駅」からバス、「三崎港」バス停から徒歩2分

 

 

三崎港前のバス停をバス通りではない道を北に進みます。

 

飲食店が並ぶ商店街を2,3分ほど歩くと海南神社が見えてきます。

 

おわりに

以前は自転車で三浦半島一周をよくしてましたが、運動不足の今、猛暑の中に三浦まで行くのはきつかったです。

 

海南神社を見学した帰り道に和田義盛の碑に寄ったのですが、一通り見学した後に階段を降りようとすると、疲れのせいかズシーンと足が重く感じました。

初声町和田にある和田義盛の碑

 

ここから実家までは20キロ以上あるのですが、近づくにつれて足の痛みが増していくのがきつかったです。

途中のマクドナルドやローソンで休憩しつつ、負担の少ないペースでペダルをこぎました。

人生で一番美味しいシェイクと水でした。大袈裟でも何でもなくそれくらい美味しいと感じました。

17時過ぎに何とか帰ることができました。

 

途中の高台から見える海の景色は相変わらず素晴らしかったです。特に美しかったのは葉山から逗子の間の海の眺めです。

絶景として紹介される時の三浦半島は基本的に海ですが、実は山も人気みたいです。今後は三浦半島の山も紹介していければと思ってます。

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