小田原城は、伊勢新九郎(北条早雲)で知られる後北条氏の居城として有名です。
小机城や石垣一夜城もいいですが、小田原城は神奈川を代表する観光スポットとして、また神奈川の城としても真っ先に挙げられる城です。
小机城と石垣一夜城は戦国時代までで廃城になりましたが、小田原城は江戸時代になると小田原藩の藩庁になりました。
明治3年に廃城になりましたが、昭和になって天守や門が復元され、散歩しながら江戸時代の技術工法を学べます。
城の天守に登れば、小田原の街や相模湾を一望できるのも魅力です。
小田原城の歴史
後北条氏の小田原城の歴史は、伊勢新九郎早雲(北条早雲)が大森氏から奪ったことに始まります。
早雲の跡を継いだ二代目の北条氏綱は、居城を伊豆の韮山から小田原に移し、関東への領地拡大に乗り出します。
北条への改名も氏綱から始まりました。
扇谷・山内上杉氏と戦いながら着々と関東での領地を拡大していく北条氏でしたが、三代氏康の時には武田信玄や上杉謙信といった戦国最強の武将に攻められてしまいます。
信玄や謙信に攻められた時は、小田原城に籠って見事撃退しました。
四代氏政、五代氏直の時には、街を取り囲む当時最大の総構えを建築しました。
氏政は織田信長には表面上は従いましたが、信長の跡を継いだ豊臣秀吉とは争うことになり、天正18年(1590)に小田原城は秀吉の大軍(15万)に包囲されました。
包囲されて3か月後に氏直は開城して降伏しました。
降伏した結果、氏政は切腹し、家康の婿だった氏直は助命されて高野山に謹慎しました。
後北条氏の後に徳川家が関東を支配すると、譜代の大久保氏、稲葉氏が小田原城主となりました。
小田原城は江戸を守る西の要となり、石垣と水堀を中心とした近世的な城へと姿を変えていきました。
明治3年(1870)になると、小田原城は廃城となって解体されました。
現在の天守は、昭和になって再建されたものです。
馬出門(うまだしもん)
馬出門(うまだしもん)は、三の丸から二の丸に向かう途中に設けられた門です。
高麗形式の門といわれ、控え柱に屋根が付きます。
発掘調査では、江戸時代の石垣や明治34年に設置された御用邸時代の石垣、門の礎石が発見されています。
現在の馬出門は、平成21年に復元されたものです。
(小田原城馬出門)
馬出門枡形(うまだしもんますがた)は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。
枡形は、江戸時代初期(1645)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。
銅門(あかがねもん)
銅門(あかがねもん)は、江戸時代の小田原城の二の丸の表門をいいます。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから、銅門と呼ばれるようになりました。
小田原城の本丸や天守へは、この門を通って行きます。
銅門は枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されています。
銅門は、明治5年(1872)に解体されました。
現在の銅門は、昭和58年から行われていた発掘調査や写真、絵図を参考に平成9年に復元されたものです。
(小田原城銅門)
馬出門を通ると住吉橋と住吉堀があります。
住吉堀は、銅門と馬屋曲輪・御茶壷曲輪の間を仕切る堀で、稲葉氏による近世化工事で完成しました。
(住吉橋と住吉堀)
昭和58年から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が掘り全体で確認され、江戸時代の絵図と合致することが確認されました。
また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘り残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。
銅門の土塀模型は、江戸時代の技術工法をもとにした模型です。
当時の建築工法が目で見て分かります。
常盤木門(ときわぎもん)
常盤木門(ときわぎもん)は、江戸時代の本丸正面にあった門です。
古地図によれば江戸時代初期には設けられていたといいますが、元禄16年(1703)の元禄地震で崩壊し、3年後の宝永3年(1706)に多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されました。
常盤木は、常に緑をつけた葉の寿命が長い常緑樹をいいます。
小田原が永久的に繫栄することを願って門の名前に使われたようです。
常盤木門は、明治3年(1870)の小田原城廃城で解体されるまでありました。
(常盤木門)
門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(七本松、現在は巨松のみ残る)に由来しています。命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められているといわれています。
明治3年、小田原城の廃城と共に解体されましたが、昭和46年に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多門櫓を再建しました。
小田原城天守閣の見学
天守閣は、戦国時代以降に見られる城の象徴的な建築物です。
小田原城は江戸の西を守る要の城で、徳川将軍家の宿所としても使われ、三代将軍徳川家光も天守に登って展望を楽しんだといいます。
(小田原城天守)
小田原城天守(案内)
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことが出来ます。
小田原城の天守閣は、見学料を払えば中に入って展示を見学できます。
天守閣 | 一般510円・小中学生200円 |
常盤木門サムライ館 | 一般200円・小中学生60円 |
2館共通券 | 一般610円・小中学生220円 |
開館時間はAM9時からPM5時まで(入館はPM4時30分まで)
ちなみに特別展は時期によって展示内容が変わります。
天守閣の受付は、階段を登った先にあります。
建物の中にある資料・展示品を見学しながら最上階へ行けば、石垣山や相模湾が一望できます。
(天守から見える真鶴半島や相模湾)
小田原城へのアクセス
自動車の場合は、小田原城址公園の周辺にコインパーキングが何か所かあります。
電車の場合は、小田原駅東口の出口から南に徒歩10分くらいです。
おわりに
小田原城のある城址公園は、小田原城の天守や櫓、門などが復元されており、城や歴史が好きな人なら楽しめます。
また、城址公園は、桜の名所としても知られている公園です。
桜の数はそれほどではありませんが、堀や櫓、天守と一緒の写真が撮れるので、写真映えすること間違いなしです。