幕末に起きた外国人殺傷事件として有名な事件に「生麦事件」があります。
生麦事件は現在の横浜市鶴見区で起こった事件ですが、必ずといっていいほど学校の授業で習います。
しかし、同じ横浜市内で起こったもう一つの外国人殺傷事件である「井土ヶ谷事件」は意外と知られてません。
幼稚園から高校まで横浜市内で過ごしましたが、生麦事件は学校で習ったのに、井土ヶ谷事件は詳しく習った覚えがありません。
「周辺の小学校は習うのかもしれませんが」
事件よりも謝罪の特使一行がスフィンクスを見学した写真の方が有名なほどです。
幕末に横浜で起こった外国人殺傷事件
幕末の日本では攘夷運動が盛んに行われ、外国人を狙った事件が相次いで起きました。
その中でも最も有名な事件が生麦事件ではないでしょうか。
生麦事件は、文久2年(1862)に現在の横浜市鶴見区生麦で起こったイギリス人殺傷事件です。
薩摩藩主の父であった島津久光の行列を、馬に乗ったままイギリス人が横切ろうとしたため、薩摩藩士が無礼討ちして1人を殺害、2人に重傷を負わせました。
久光は藩主ではありませんが、藩の国父として権力を握っていました。
大名行列を横切るような行為は無礼とされ、無礼討ちも許されていましたから、薩摩藩士に再三注意されたにもかかわらず、行列を横切ろうとしたイギリス人に対して行った薩摩藩の行為は当時としては当然のことだったのでしょう。
ところが、この事件がきっかけとなって薩英戦争が起きてしまいます。
薩英戦争で鹿児島は甚大な被害を被りましたが、イギリスも戦争を継続できる状況ではなかったため、講和に至りました。
幕末には外国人への殺傷事件が何件か起きており、横浜市内では生麦事件の他に「井土ヶ谷事件」と呼ばれる殺傷事件が起きています。
また、隣の鎌倉でも外国人殺傷事件が起きています。
生麦事件の碑
生麦事件碑は、生麦事件の発生現場から800mほど横浜方面に進んだ場所にあります。
碑がある場所の上には、高速道路が走っていて、周りには工場と国道15号線があります。
生麦事件碑に行ってみると、まわりの看板や通路が新しく作りかえられてました。
明治に建てられたという生麦事件の碑がこちらです。
碑は少し欠けてました。
「文久二年八月二十一日(西暦1862年9月14日)勅使大原徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光 の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、 2人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。
明治十六年(1883)、鶴見の黒川荘三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文を依頼し 遭難碑を建てました。」
生麦駅から少し歩いた場所には、生麦事件参考館もあります。
住所は「横浜市鶴見区生麦1-11-20」になります。
京急線の生麦駅の近くにある麦事件参考館です。現在は閉業してます。
生麦事件碑のアクセス
所在地 神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目16
生麦事件碑は、高速道路の下にあります。
生麦事件発生現場
生麦事件の碑がある場所から、生麦事件発生現場までは800mほど離れています。
「文久二年八月二十一日辛未晴天
島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉、異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当村役人一同桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候
生麦村名主 関口日記ヨリ 」
事件現場とされる場所は、現在は住宅街になっています。
生麦事件現場アクセス
所在地 神奈川県横浜市鶴見区生麦4丁目25−41
井土ヶ谷事件の碑
井土ヶ谷事件を知ったのは、社会人になって不動産会社に勤めるようになってからです。
不動産会社の営業では、車で各地を走り回るのですが、その際に前をたまたま通り過ぎたのが井土ヶ谷事件の碑でした。
井土ヶ谷事件の碑は、横浜市南区の住宅地に立っています。
横浜市教育委員会の解説「井土ヶ谷事件の跡」の文字が所々薄くなってたので書いときます。
「井土ヶ谷事件とは生麦事件と同じく外人殺傷事件で、現場の地名をとって仮称したものです。
文久三年九月二日(1963年10月14日)お昼ごろ、井土ヶ谷村字下之前でフランス士官カミュが浪人体のものに殺害されました。
神奈川奉行合原井猪三郎は下手人を捜査したが、遂に逮捕することができなかったため、横浜在住の居住人は幕府を非難し、碇泊の外国軍艦は乗組員の一部を上陸させ、警戒態勢を敷きました。 山手に外人部隊の駐屯地ができる発端となりました。
幕府はフランス公使ベルクールの示唆によって、謝罪使を横浜鎮港使派遣の名目で池田筑後守らを任命した。使節は渡仏し謝罪の上、遺族扶助料を与えましたが、鎮港は実現しませんでした。
カミユは事件の翌日、現在の外人墓地に埋葬され、国費で墓碑も連立されました。事件跡は、この場所から東南へ約一町(109m)はなれた現在の南区井土ヶ谷下町三のあたりです。」
実際の事件現場はここから109m離れているようです。
戦没者慰霊碑
柱の碑の文字が、かすれて見えなくなってましたが、よく見ると「横浜市地域史跡 井土ヶ谷事件」とあります。
庚申塚もあります。
井土ヶ谷事件の謝罪のためにフランスに派遣されたのが池田長発の一行です。
池田長発の一行を有名にした写真が、スフィンクスに写る侍一行の姿です。
また、池田長発は少し前に幕末のイケメンとして話題となったので、知っている人もいるかもしれません。
ウイキペディアでは、ちょんまげをした侍一行がスフィンクスに立ち寄っている写真が見れます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA
生麦事件の碑アクセス
所在地 神奈川県横浜市南区井土ケ谷下町32−17
おわりに
今回は生麦事件と井土ヶ谷事件の碑を回ってきました。
生麦は横浜市の北部にあり、横浜にも東京にも出やすい場所です。
閑静な住宅地とはいえませんが、アクセスが良好なので意外と人気があります。
井土ヶ谷も横浜に近いので割と人気です。駅から遠いエリアは坂が多いですが、不動産の価格は手頃です。