大江広元といえば、源頼朝の側近として、また、政所別当として鎌倉幕府の創設に功があったことで知られています。
頼朝死後、北条氏は策略を用いてライバル武将を次々に葬っていきますが、大江広元には一目置いていたようで、広元と北条氏は協調して幕政にあたっています。
承久の乱では、嫡男が朝廷側に付きましたが、広元は一貫して幕府側の重鎮として活躍しています。
十二所にある「大江稲荷」は、そんな大江広元を祀った神社です。
鎌倉十二所にある「大江稲荷」
大江広元は、京都で下級公家として生まれましたが、やがて源頼朝の代官として活躍するようになりました。
広元は頼朝に従って鎌倉に下向し、鎌倉幕府創設後は政所の長官として幕府に貢献しました。
荒々しい武士ばかりの頼朝家臣団の中にあって行政手腕に優れた広元は重用され、広元が公家出身だったこともあり、与えられた官位も鎌倉幕府の家臣の中では高いものでした。
頼朝死後も広元は北条政子、義時ら北条一族と協調して幕府を盛り立て1225年に死去しました。
大江稲荷は、金沢鎌倉街道から少し入った十二所にある小さな神社です。
金沢鎌倉街道から大江稲荷を望み見ています。十二所自体が鎌倉の外れにありますし、事前に調べて行かないと気付かず通り過ぎてしまう可能性があります。
一応、金沢鎌倉街道沿いに大江稲荷の看板が出てました。
「祭神は大江広元公である。源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、政所の初代別当(長官)として、頼朝の右腕を務めた人物。初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広元木像を祀る、十二所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。」と書いてあります。
稲荷社ですが、寺院の僧侶が供養するようです。神仏習合により寺院でも摂末社に神社があるのはよく見かけます。
大江稲荷社の周りは山に囲まれ、神社は閑静な場所にあります。
この日はかなり日差しが強かったのですが、木が茂っていて奥が暗くなってます。
鎌倉の寺院には珍しく階段に手摺りがありました。鎌倉の名所といわれる場所であっても、急な階段なのに手摺りがないところも多いです。
正一位稲荷大明神ののぼりがいくつも立ってます。
お稲荷様といえば、キツネの像が有名で社にはたくさん並んでますが、ここはそれほどキツネの像は置かれてませんでした。駅から遠く、有名な神社ではないので、お参りする人も少ないようです。
・所在地:神奈川県鎌倉市十二所114
大江広元邸址
大江稲荷社から徒歩で5分くらいの場所に「大江広元邸址」の石碑が建ってます。
石碑は明石橋交差点の近く、交差点を川沿いに進んだ先にあります。交差点からは100mほどの距離です。
大江稲荷社から金沢鎌倉街道を通ってきた場合は、この橋を渡って少し進むと碑があります。
街道から1本外れているので、普通に歩いてたら石碑に気づかないと思います。
大江広元邸址の碑です。
「大江氏、奕世学匠として顕る。嘗て匡房、兵法を以て義家に授く。広元は其の匡房の曽孫なり。頼朝に招かれて鎌倉に来たり。常に帷幄に侍し、機密に参画す。幕制創定の功、広元の力興りて多きに居り。相模毛利荘を食む。子孫依りて毛利を氏とす。而して因縁奇しくも此の幕府創業の元勲が七百年後の末裔は王政復古に唱首たり。此の地即ち其の毛利の鼻祖大膳大夫の邸址なり。
大正十四年二月建 鎌倉青年団」
大江広元邸址の石碑は普通の住宅地に建ってます。鎌倉ではよくある光景です。
大江広元と毛利氏
大江広元の四男の季光は、相模国の毛利庄を領地として与えられ、毛利を名乗りました。
広元の死後、宝治元年(1247年)に起きた北条氏と三浦氏が争った宝治合戦では、広元の四男・毛利季光は三浦氏について戦いました。
毛利一族の多くが三浦氏に付いて死んでしまったものの、四男の経光が生き残り、子孫に毛利元就、北条(きたじょう)高広といった有名な戦国武将を輩出しました。
毛利元就は中国地方の覇者となった人物で、北条高広は上杉謙信の有力武将です。
源頼朝の墓といわれる場所の裏手にある法華堂跡地近くには、大江広元と毛利季光のものと伝わる墓があります。
ただし、どちらの墓も幕末に長州藩が整備したものであり、信ぴょう性は低いというのが実際のところみたいです。
大江広元のものと伝わる墓です。十二所の山の中にも広元の墓と伝わるものがあります。
毛利季光のものと伝わる墓、供養塔です。
薩摩島津氏の祖といわれる島津忠久のお墓もありますが、こちらも幕末に整備されたため、真偽のほどは分かりません。
相模出身の戦国大名は多い!?
大江広元の子孫の一人が中国地方に覇を唱えた毛利氏ですが、神奈川県(相模の国)出身の戦国大名は毛利氏以外にもいます。
戦国時代まで続いた三浦氏は、相模の三浦半島に拠点を置く戦国大名です。
奥羽一の名家といわれた芦名氏の由来も、三浦半島にある芦名によるとされています。
越後の上杉謙信はもとは越後守護代の長尾氏でした。長尾氏は桓武平氏でしたが、相模の高座郡長尾荘を本拠としたときに長尾氏を名乗るようになったそうです。
また、九州地方の豊後を拠点にした戦国大名大友氏は、相模の足上郡大友を支配したために大友氏を称しました。
鎌倉時代に大友能直が鎮西奉行、豊後守護に任じられ、元寇のときに大友氏は豊後に下向して土着してます。
まとめ
・大江広元は源頼朝の側近
・大江稲荷社は大江広元を祀った神社
・大江稲荷社から350mくらい離れた場所に大江広元邸址がある