源氏山公園から化粧坂切通しを下りて行った先に「景清土牢」と呼ばれている場所があります。
景清というのは、平(藤原)景清のことで、武勇を持って知られた人でした。
武勇から「悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)」の異名もあります。
悪七兵衛景清
平(藤原)景清は、鎌倉初期の武士で、平氏の有力御家人であった伊藤(藤原)忠清の七男といわれています。
景清は、平家に仕えて源平合戦で活躍し、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという話が今に伝わっています。
平家が源氏に敗れた後、源頼朝を暗殺しようと企みましたが、頼朝に見破られて捕らえられました。
建久六年(1195)3月13日、再建された奈良東大寺の落慶供養の式に頼朝が出席した時の出来事、このときに東大寺転害門近くに平氏の残党が多数潜んでいることに頼朝は気づきます。
平氏の残党はこうして捕らえられ、この捕らえられた残党の首領が平景清でした。
捕らえられた景清は、和田義盛に身柄を預けられることになりました。
鎌倉に護送された景清は、逃げ出さなければ自由の扱いだっため、酒宴には顔を出すし、庭で馬を乗り回すなど和田義盛の館で傍若無人に振舞いました。
景清の振る舞いに手を焼いた義盛は、他の人に預けるように頼朝に願い出たので、頼朝は八田知家に預けることにしました。
景清を預かった知家は、景清を手厚くもてなしました。
しばらくすると、父も兄弟も処刑されたのに、自分だけは鎌倉で敵に施しを受けて生き長らえている……そんなことを思うようになり、このことに耐えられなくなった景清は、化粧坂切通しにある洞窟に自ら入って読経をするだけの日々になり、やがて食を断って果てたそうです。
景清の死亡は、1196年3月7日のことと伝わっています。
化粧坂を下りた先にある「水鑑景清大居士」と刻まれた碑です。
父も兄も処刑される
平景清の父である伊藤(藤原)忠清は、平家の有力な家臣だったため、源平合戦では平家側について戦いました。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、志摩の阿曽浦で捕えられて京都に送られ、六条河原でさらし首となりました。
また、平家の侍大将だった兄の平忠光も、永福寺の工事の人夫に紛れて頼朝を暗殺しようと企てたところ、頼朝に見抜かれて取り押さえられました。
そして、1か月後に武蔵の六浦(横浜市金沢区六浦町)の海岸でさらし首となりました。
この後も平家残党による頼朝の暗殺未遂事件が起こりますが、いずれも失敗に終わりました。
向陽庵大悲堂の碑
景清土牢窟の下には、向陽庵大悲堂碑があります。
写真手前が向陽庵大悲堂の碑で、奥にある碑が水鑑景清大居士の碑です。
景清の娘の人丸姫は、父を訊ねて京都から鎌倉に来ましたが、すでに景清は死亡していたため、土牢の近くに向陽庵を作り、景清の守本尊の十一面観音を祀ったそうです。
人丸姫は、尼になると残りの人生を向陽庵にこもって死ぬまで景清の供養をしたそうです。
向陽庵大悲堂の石碑は、1765年に江戸の儒者伊東亀年(藍田)が建てたと伝わっています。
景清土牢
景清土牢跡は、現在の化粧坂切通し近くにあったそうです。
水鑑景清大居士の碑がありますが、ここが土牢跡ともこの近くともいわれています。
意識して進まないと気付かずに通り過ぎてしまいます。
源氏山公園の化粧坂切通しを下りて右に曲がる分かれ道の手前にあります。
まとめ
・景清土牢の平景清は、平家の有力武将だったが源平合戦に敗れた。
・景清の父忠清は、志摩国阿曽浦で捕まり、京都の六条河原で処刑された。
・兄の忠光は、永福寺の工事の人夫として紛れて頼朝暗殺を企てたが、頼朝に見破られて捕まり、武蔵の六浦で処刑された。
・景清も頼朝に見破られて捕らえられ、八田知家に預けられたが、やがて自ら食べる量を減らしてしまいには絶食して死んでしまった。
・景清の娘の人丸姫は、景清の菩提を弔うために向陽庵を建て、尼になってこの地で生涯を終えた。
景清土牢だけだとがっかりする可能性があるので、化粧坂や源氏山公園と一緒に寄るのがおすすめです。