鎌倉の「薬王寺」に行ってきました。
鎌倉の扇ガ谷には、徳川家・蒲生家と縁が深い「薬王寺」という寺院があります。
薬王寺は、住宅地にあるので気づかずに通り過ぎてしまう人もいそうです。
薬王寺について
薬王寺は、もとは真言宗梅嶺山夜光寺(ばいれいざんやこうじ)という寺院でしたが、日蓮上人の孫弟子である日像が寺の住職を論難の末に、1293年(永仁元年)日蓮宗に改宗させたという言い伝えがあります。
その後、薬王寺は衰退しますが、日達が徳川家康の孫にあたる徳川忠長の正室松孝院の援助を得て、大乗山薬王寺として再興させました。
薬王寺の境内には、徳川家光の弟の駿河大納言・徳川忠長の供養塔と、家康の孫にあたる松山城主蒲生忠知の正室と娘の墓があります。
また、薬王寺の寺紋は、徳川家の家紋である三葉葵が用いられており、徳川家と深い関係があることを感じさせる格式の高い寺院です。
明治初期になると、廃仏毀釈によって荒廃して無住職となりましたが、時を経て日振、日照によって現在の山容が整えられたそうです。
宗派 | 日蓮宗 |
山号 | 大乗山 |
建立 | 1293(永仁元年) |
開山 | 日像上人 |
参考 「日蓮宗 薬王寺」ホームページ
大乗山薬王寺アクセス
薬王寺は、「北鎌倉駅」で下車して、亀ヶ谷切通しを上って下りた先の住宅街の中にあります。
「鎌倉駅」からの場合は、横須賀線と並行するように北に向かい、線路を超えた先にある岩船地蔵堂を曲がった先にあります。
北鎌倉駅で降りて、亀ヶ谷切通しを抜ける場合は、そこそこ急な坂があります。また、車は通り抜けできません。
鎌倉駅から徒歩の場合は、平坦で寺院まで行けます。
この先を真っすぐ進むと薬王寺があります。
所在地 | 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目5−1 |
交通 | JR「北鎌倉駅」から徒歩15分、JR「鎌倉駅」から徒歩13分 |
マップ
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兄と次期将軍をあらそった「徳川忠長」
徳川忠長は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の三男として生まれました。
秀忠の妻である江は、家光よりも忠長を可愛がったといわれていますが、このことが後に家光との関係に影を落とすことになります。
秀忠の後継者をめぐって家光派と忠長派とで意見が対立すると、家光の乳母の春日局は駿河まで行って家康に訴え、これを聞いた家康は家光を次期将軍とするように言ったといいます。
忠長は最初は甲府に領地を与えられ、元服後には駿河国と遠江の一部を加増されて駿河大納言と呼ばれるようになります。
元服後に織田信長の孫にあたる織田信良の娘昌子と婚姻しますが、この昌子が後の松孝院です。
ところが忠長には何度も咎められるなど、問題となる振る舞いが多く、やがて家光から蟄居を命じられ、領地も没収、最後には切腹となりました。
正室の昌子は松孝院となり、薬王寺に忠長の供養塔を建立したそうです。
奥にあるのが薬王寺の本堂。
薬王寺の鐘楼
徳川家康と蒲生氏郷の孫「蒲生忠知」
蒲生忠知は、蒲生氏郷の孫にあたります。
蒲生氏郷といえば、才能を織田信長に愛され、信長の娘を娶ったほどの器量人として有名です。
氏郷が亡くなった後は、嫡男の蒲生秀行が継ぎ、その時に徳川家康の三女振姫と婚姻しました。
関ケ原の合戦では、秀行は東軍について領地を加増されています。
しかし、秀行は30歳の若さで亡くなり、その後は嫡男の忠郷が継ぐことになります。
忠郷も若くして亡くなってしまいます。
忠郷が継嗣がいないまま亡くなると、本来であれば家の取りつぶしでしたが、母親が家康の三女だったことから、松山に転封となって蒲生忠知が継ぎました。
しかし、跡を継いだ忠知も嗣子がないまま亡くなってしまい、結局蒲生家はお取りつぶしとなりました。
忠知は、内藤家から正室を迎えており、忠知死去の際に懐妊していた妻は娘を出産しましたが、12歳で亡くなってしまったそうです。
薬王寺には、忠知の正室と娘の墓があります。
観音堂
大乗山薬王寺のまとめ
大乗山薬王寺は、徳川家、蒲生家と深い関係にある格式高い寺院で、寺紋には徳川家の紋所と同じ葵のご門が用いられています。
境内には、駿河大納言徳川忠長の供養塔が立っています。
また、蒲生忠知の正室と娘の墓があります。