前回、旧東海道を鶴見から神奈川宿まで歩きました。
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横浜の旧東海道をゆく1日目(鶴見~神奈川宿)
川崎の八丁畷駅で降りて横浜方面に旧東海道を歩いてみました。 旧東海道というのは、江戸から京都まで続く街道のことで、途中には53の宿場(東海道五十三次)があります。 横浜市内には、神奈川宿 ...
今回も歩いて行こうと思いましたが、横浜から戸塚までだと前回の倍の距離になるので自転車で行くことにしました。
横浜まではみなとみらい地区を経由して行きました。
前回同様、青木橋を渡って上台橋に到着したので、そのまま西口ランプに進みます。
横浜から天王町へ
西口ランプに出たら、浅間下交差点から大通りを並行するように旧東海道を進みます。
しばらく進むと洪福寺松原商店街があります。横浜に住んでた頃は時々行ってましたが、昔からある有名な商店街で値段も安いです。
旧東海道はこの通りになります。松原商店街は、浜のアメ横とも呼ばれ、一日2万人以上が訪れるそうです。
国道16号線を越えた先に江戸方見附跡の案内板があります。
「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号線を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では、天王町391・393番地(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されていたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を併せ持っていたと考えられます。
ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内(しゅくうち)」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
保土ヶ谷区役所
保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿は、品川、川崎、神奈川に次ぐ宿場で、江戸から約33キロメートル離れています。
追分から境木地蔵辺りまでの約5キロが保土ヶ谷宿とされています。
天王町駅前公園には、保土ヶ谷宿周辺の散策案内が設置されてます。ここの案内図には、東海道がどの道を通るか示されてます。
左:旧中橋跡の案内板、右:高札場跡の碑
金沢横丁に石碑が4つ並んでますが、ここは金沢や鎌倉に続く道との分岐点です。
(金沢横丁の碑)
右から順に「円海山之道」「かなさわ・かまくらへ通りぬけ」
二番目の碑「かなざわかまくら道」「弘明寺道」
三番目の碑「程ヶ谷の枝道曲れ梅の花」「梅の名所杉田への道」
四番目の碑「ほうそう神富岡の芋大明神への道」とあります。
金沢横丁から200mほど行くと、本陣跡があります。
国道1号線に出て戸塚方面に進むと、松並木プロムナードがあります。
この松並木は、保土ヶ谷区民と横浜市との協働によって植樹され、一里塚も復元されました。
この付近にあったといわれる一里塚は、江戸から八番目のものです。近くの外川神社の前には上方見附跡もあります。
国道1号線の保土ヶ谷二丁目を斜めに入り、光陵高校に続く細い坂道が東海道最初の難所といわれた権太坂です。
権太坂を上ると富士山と大山を一望できる場所がありました。
江戸時代以前の旅人にとって、富士山は方角を知る術でもありました。
権太坂を上った先には境木立場跡と境木地蔵尊があります。立場とは、馬子や人足の休憩所です。
境内にあったケヤキの木が武蔵と相模の境だったので、境木という地名になったという言伝えがあります(境木地蔵尊)。
戸塚宿
境木地蔵尊前の戸塚方面に向かう坂は、焼餅坂(やきもちざか)と呼ばれています。この坂も江戸時代の旅人にとっては権太坂と並ぶ難所坂だったそうですが、今も急な坂です。
坂の上には旅人向けの茶屋が並び、焼餅を売っていたことから焼餅坂と名付けられたそうです。
焼餅坂を下って進むと品濃一里塚があり、道の両脇に塚が築かれています。
品濃一里塚は、日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間にあります。今でも道の両脇に塚が当時の形で残っているのは、神奈川県内ではここだけといわれています。
品濃坂は階段だったので、迂回して再び旧東海道に出ました。そして、不動坂まで来たところで一旦道を逸れて行ったのが護良親王の首洗い井戸です。
護良親王は、鎌倉幕府の倒幕で活躍した後醍醐天皇の皇子でしたが、足利尊氏と対立して鎌倉に幽閉され、最後は首をはねられてしまいました。
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【鎌倉宮】建武の親政で活躍した大塔宮護良親王を祀る神社
鎌倉市二階堂にある鎌倉宮(かまくらぐう)をご存知でしょうか。 明治2年に明治天皇の勅旨によって造営された鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子である大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししんのう ...
途中にあった吉田一里塚の碑です。
江戸から十番目の一里塚なので、日本橋から約40キロの場所です。戸塚宿は、旅籠が75あって東海道では10番目に宿泊施設が多かったそうです。
戸塚駅を越えると澤部本陣跡があります。
澤部本陣は戸塚宿に二つあった本陣の一つで、本陣創設時の当主だった澤部宗三は戸塚宿の開設にあたり幕府に強く働きかけた功労者だったそうです。
富塚八幡宮は、戸塚宿の総鎮守です。
旧東海道はこのまま続きますが、ここから先は藤沢市に入るので終わります。
おわりに
歴史を思いながら旧東海道を歩きましたが、江戸時代は大昔のようで今から150年しか経ってません。
昔の情景を思い浮かべながら歩くと楽しみながらウォーキングができます。