神奈川県三浦市にある「油壷」は、相模の名門三浦氏の滅亡の地といわれています。
油壺には、新井城と呼ばれた城がありました。
相模三浦氏は、伊豆から相模に進出してきた伊勢早雲(北条早雲)と敵対しましたが、やがて劣勢に追い込まれて三浦に退却します。
三浦義同・義意父子は、新井城に立て籠もって抵抗しましたが、防戦虚しく落城して義同・義意父子は討ち死にしました。
落城した際、討ち死にした三浦一族の死体から流れる血で湾が赤く染まり、油のようであったことから油壷の名がついたとの言い伝えがあります。
油壺の由来
油壷の由来
油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭った三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将・三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世「油壺」といわれるようになりました。
北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず。丑寅の方と未申の方より電かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」
三浦市
関東制圧を狙っていた北条早雲が大軍で新井城に攻めてきたため、三浦道寸義同と子の荒次郎義意は城に立て籠もって3年も戦ったが、ついに永正15年(1518年)に城は落城し、道寸父子は自害したそうです。
この時他の将兵も討死、または湾へ投身したと伝えられています。そのため湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したようになったので後世「油壺」といわれるようになったそうです。
今日では、油壺湾、小網代湾、諸磯湾はヨットハーバーとして、また、油壺湾は台風等の大しけの時などは天然の入江を利用した漁船の避難場所にもなっています。
油壺は、都心から近く、別荘として購入する人も多いです。ヨットハーバーが整備されていて、たくさんのヨットが係留されています。
新井城址
三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。
引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に往時を偲ぶことができます。
三浦市
油壺へのアクセス
住所 | 神奈川県三浦市三崎町小網代 |
電車バス | 京浜急行線「三崎口駅」下車、油壺温泉行のバスに乗る |
油壺の最寄りは京浜急行線の三崎口駅になります。三崎口駅からバスが出てます。
油壷マリンパークが閉業になっちゃいました。大学時代の一時期、毎日油壷に行ってたので寂しいです。
油壷周辺の海水浴場は穴場
油壺は、はっきり言ってアクセスが悪いです。
アクセスが悪いため、海水浴場は他よりも空いていることが多いと思います。
車の場合は、三浦縦貫道路の林に出た後は、国道134号線を南下していきます。引橋交差点からは県道を南下し、油壺入口で右折すれば間違えずに行けると思います。
油壺周辺には、市営の駐車場があります。
駐車料金は、普通車は510円(520円)、バイクは210円でした。
駐車場から海水浴場へ
周りには、胴網海岸、横堀海岸、荒井浜海岸があり、どこも比較的空いてます。
今回は荒井浜海岸に行ってみます。
駐車場から荒井浜海水浴場に向かうときの道です。
荒井浜海水浴場の波はそれほど大きくないので、子供でも安心して遊べます。
小さい海水浴場ですが、一応海の家もあります。奥に行くと向こうまで岩場です。
海岸に向かう途中に石碑や看板が設置されてました。
石碑には「外海は荒れゐて月の油壺」とあります。
白秋文学コースの看板には白秋の詩が書いてあります。
白秋文学コースの看板の横に「かながわの景勝50選 油壺湾」の石碑も建ってます。50か所まわることを目指してる人もいるようです。
ちなみに三浦市には、油壺湾の他、城ヶ島、盗人狩、剱崎がかながわの景勝50選に選ばれてます。
油壺湾
上から見える場所を探しましたが、木が邪魔でなかなか見えません。自撮り棒を持ってくればよかったと思います。
下に通じる道から油壺湾に下りれました。
他の景勝地と比べると微妙ですが、今から500年前に三浦氏と北条早雲が戦った歴史ある場所です。敗れた三浦一族はこの湾に身を投げ、血に染まった一面は油が流れるような光景だったそうです。
油壺湾まとめ
・油壺湾は三浦一族滅亡の場所
・油壺湾の名前には、戦争で負けた三浦一族の血が油のようであったからという言い伝えがある
・油壺周辺の海岸は穴場