逗子の海岸沿いにある高養寺は、徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす・ふじょき)」の舞台となった場所といわれています。
寺院は小説のヒロインである浪子の名から、浪子不動と呼ばれて親しまれています。
高養寺の前の階段を登って海の方を向くと「不如帰」と刻まれた石碑が見えます。
普段は海水で渡れませんが、潮が引いている時は国道134号線のガード下を通って石碑まで歩いて行くことができます。
逗子に住んでいた頃は移動が車だったので、一度も歩いて石碑まで行ったことはありませんが、この日は自転車だったので石碑まで歩いてみました。
不如帰の碑
逗子駅から国道134号線に出て、しばらく鎌倉方面に進んで行くと右側に小さな公園と寺院が見えてきます。
この寺が高養寺でいつも扉が閉まってますが、高野山真言宗の寺院だそうです。
もとは葉山の慶増院という廃寺寸前の寺院を移設したといわれており、その時に協力した高橋是清と犬養毅から高養寺の名が付けられたそうです。
ちなみに高養寺の奥にある階段からは披露山公園に15分くらいで行くことができます。
(披露山公園の「かながわの景勝50選」の碑)
高養寺の下には階段があって国道134号線の下を通って海側に出ることができます。
この日は潮が引いていたので、こんな感じでした。
階段があるので下りて岩場を歩くことができます。
ちなみに満潮の時は階段まで海水がきてるので、階段の上で遠くから碑を眺めるしかありません。写真は、上の写真と同じ場所から撮った満潮時のものです。
岩場を歩いてみると、潮だまりにカニやウニ、小さな魚がいました。この辺りは横浜から近い割に海がきれいです。
横須賀や三浦の海岸のように岩が上に突き出てないので歩きやすいですが、靴によっては滑ります。滑るのでサンダルのような足元だとケガする可能性があります。
不如帰の碑に近づいてみると、碑は思ったより大きいです。ちなみに石碑の文字は蘆花の兄の蘇峰によるものだそうです。
不如帰の碑の前から見た浪子不動です。後ろは山になっていて、逗子が自然に囲まれた場所というのがよく分かります。
逗子は自然に囲まれているので、子育て世代に人気があるエリアです。あとウィンドサーフィンをする人にも人気です。
浪子不動園地
高養寺の下は小さな公園になっていて、浪子不動園地といわれています。
ここは浪子の秋月として逗子八景(新八景)の一つにも選ばれていてます。
浪子不動園地にはベンチと芝生があるので休憩ができます。アクセスしにくい場所にあるので人は少ないですが、ウォーキングや犬を散歩している人を見かけます。
園内には、徳富蘆花や逗子海岸にまつわる案内版がいくつかあります。
先生名は健次郎徳富氏蘆花はその号なり 明治元年(1868)肥後水俣に生る 父は一敬母は久子 先生はその二男なり 夙に京都同志社に学び泰西の学術並にキリスト教的教育を受く 卒業後は兄猪一郎(蘇峰)の経営せし民友社に入りついで国民新聞に筆を執り明治三十年わが逗子の地に居を移し爾後不如帰 青山白雲、自然と人生、思ひ出の記等を陸続発表し先生の文名は海の内外に高くその著作は多く英仏独等の語に翻訳せられた
以下略
小説不如帰と浪子不動
徳富蘆花の「不如帰」は1900年に出版されてベストセラーになりました。
明治に書かれた作品なので文体が少々古いのですが、同時代の他の小説に比べれば読みやすいです。
この小説は、蘆花が逗子に住んでいた頃に病気療養で子供を連れた婦人と知り合いになり、その婦人から聞いた話をもとにしています(巻首の本人談)。
大山巌元帥の娘信子の哀話をもとに、明治31~32年「国民新聞」に連載され、当時空前の反響をよんだ蘆花(1868-1927)の出世作。
この作品は、日清戦争の時代、家族制度のしがらみと結核にさいなまれる浪子と武男という若い夫婦の話です。
武男と浪子の仲は良好で問題ないのですが、浪子に恋慕する千々岩という男や気難しい武男の母によって、武男が留守の間に離縁させられてしまいます。
武男は軍人なので浪子に会えないまま、浪子の病気はどんどん重くなっていきます。
ベストセラーになったというだけあって、なかなか面白かったです。
おわりに
観光スポットの割に浪子不動・不如帰の碑は訪れる人は少ないです。
アクセスが悪く、潮が引いてないと碑まで行けないので、歩いて行ける時はラッキーです。
私も数年前に逗子にいて、今も時々訪れますが実際に降りて岩場を歩くのは初めてでした。
この碑のためだけにここを訪れる人は少ないと思いますが、周辺には披露山公園や大崎公園といった眺めが良い観光スポットがあります。
逗子なら都内から電車で約1時間ですし、海や山といった自然も満喫できますから、住むにはいいと思います。