光触寺(こうそくじ)は、鎌倉市十二所にある山号を岩蔵山という時宗の寺院です。
鎌倉には、時宗の寺院は七か所あるそうですが、そのうちの一つになります。
光触寺は、頬焼阿弥陀(ほほやけあみだ)の伝説がある阿弥陀如来が安置されている寺院としても知られています。
また、境内には一遍上人の像と、塩を舐める伝説が残る塩嘗地蔵が安置されています。
光触寺について
光触寺の三門をくぐると石畳があり、さらに進むと左側に本堂があります。
本堂には、頬焼阿弥陀(ほほやきあみだ)の言い伝えを持つ阿弥陀如来が本尊として安置されているそうです。
頬焼阿弥陀如来の伝説とは、以下のようなものです。
町の局(つぼね)に仕える万蔵法師は、阿弥陀如来を信仰していて日頃から深く信仰していました。
ある時、彼は身に覚えのない盗みの疑いを主人の局にかけられ、頬に焼き印を押されてしまいます。
ひどい目にあった万蔵法師が助けたまえと祈ると、翌日には彼の頬から焼き印が消え、かわりに阿弥陀の頬に焼き印が押されていたそうです。
本尊の阿弥陀如来にも頬の傷があり、頬焼阿弥陀の伝説を今に伝えています。
光触寺境内にあった案内です。
『時宗の開祖・一遍上人(いっぺんしょうにん)が開基(寺の創立者)と伝えます。
本尊の木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(頬焼阿弥陀・ほおやけあみだ)には、盗みの疑いをかけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼印が残ったといわれる伝説があります。
本堂の前の「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」は、六浦(現・横浜市金沢区)の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵様に塩をお供えしたといい、いつも帰りには無くなっていたところからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入ってきたことが分かります。』
寺の三門です。
光触寺は、鎌倉三十三観音霊場第7番札所であり、鎌倉二十四ヶ所地蔵第5番札所でもあります。
光触寺の境内には石仏が並んでおり、本堂は枯淡の美があります。
石仏がたくさん並んでます。
一遍上人の像
山門をくぐって石畳をまっすぐ進むと一遍上人の像が立っています。
一遍上人は、時宗の開祖といわれ、この光触寺の開基も一遍上人です。
一遍上人の顔がちょっと怖かったです。しかも少し前かがみになってます。
鎌倉の寺院は全て回りましたが、時宗の寺院は七か所あるようです。
朝夷奈切通
朝夷奈切通は、六浦(横浜市金沢区)と鎌倉の十二所とをつなぐ交通路です。
金沢の領主であった北条実時は、3代目執権北条泰時の信任が厚く、伯父とおいの関係でもあります。
実時が金沢を支配することで、鎌倉で変事があった時、いつでも北条氏の軍勢を鎌倉に投入できるようになります。
北条泰時の時代は、ライバルに三浦半島に勢力を張る三浦氏がいました。
鎌倉周辺を北条氏が押さえることは、三浦氏に対抗するうえでも重要だったようです。
朝夷奈切通は、鎌倉に入る主要な切通しの一つで、鎌倉七口の一つに数えられています。
鎌倉七口に共通しているのは、途中の道がせまく、押さえられたら大軍は通れなくなります。
切通しに弓の名人が立つと大軍を防ぐこともできたそうです。
朝夷奈切通と同じ七口の一つである化粧坂切通は、鎌倉時代末期に新田義貞が攻めましたが、攻め落とすことが出来ず、結局稲村ケ崎の南側から迂回しています。
朝夷奈切通の入口には、上総の国の有力御家人であった上総介広常(かずさのすけひろつね)の屋敷が存在していたといわれ、朝比奈バス停近くに上総介塔と呼ばれる供養塔があります。
上総介塔は六浦方面側、朝比奈町の六浦原宿線沿いにあります。
塩嘗地蔵
塩嘗地蔵の話は、小学校の頃に授業で習いました。
明治までは金沢に塩田があったようです。今は住宅街になってしまいましたが、六浦中学校の近くには今も塩場と呼ばれる場所が残っています。
六浦と鎌倉を結ぶ通路は、かつて塩の道と呼ばれ、六浦(金沢)街道沿いには塩嘗地蔵があったといわれています。
六浦の塩売りの商人が、商売繁盛と旅の無事を願って塩を地蔵に供えて鎌倉へと向かうと、行きに供えた塩が帰りにはなくなっていたことから、塩なめ地蔵と呼ばれるようになったそうです。
実際は、貧しい人がお地蔵さまに供えられた塩を拝借したそうです。貧しい人もお地蔵様のおかげで塩を頂くことができたことになりますね。
現在の塩嘗地蔵は、光触寺の境内に移って安置されています。
光触寺へのアクセス
所在地 神奈川県鎌倉市十二所793
アクセス JR「鎌倉駅」からバスで「十二所」バス停まで行き下車徒歩2分
まとめ
光触寺にある塩嘗地蔵は、昔は朝夷奈切通しにあったといわれています。
光触寺の境内には、一遍上人像と塩嘗地蔵が今も安置されてます。
朝夷奈切通しと一緒に光触寺に立ち寄ってみてはいかがでしょう。