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横浜の名城・小机城があった「小机城址市民の森」の散策

投稿日:2018年4月23日 更新日:

JR横浜線の小机駅から歩いて10分ほどの場所にある「小机城址市民の森」へ行ってきました。

 

小机城址市民の森の見所は、何といっても小机城の址です。

横浜市港北区にある小机城址は、戦国時代末期には廃城になったようですが、現在も中世の城郭跡が残されています。

中世の城郭がそのまま残っているのは、かなり珍しいそうです。

小机城址市民の森

小机城址市民の森は、小机城の址一帯が市民の森として整備され、敷地内にはトイレもあります。

市民の森というのは、横浜市が緑地を保存するための制度です。

港北区の南。本丸・二の丸・空堀・土塁などがほぼ原型で残された小高い丘。
中世の城郭を利用した市民の森はここだけ。
小さなアップダウンの多いうっそうとした雑木林や見事な竹林が、戦国の世を思い起こさせる。
うずまき状の小山のてっぺんの富士仙元からは、ぐるりとあたりを見回せて、一国のあるじの気分。
アプローチの家々も、さすがに古く趣があり、時代劇ファンならずとも雰囲気ばつぐん!!

横浜市 環境創造局 小机城址市民の森HP

 

小机城址市民の森へは、住宅地を抜けて行きます。

 

この奥が小机城址市民の森の入口です。周辺には住宅地が建ち並んでいます。

 

「ねこやひろば」にトイレと小机城址市民の森の案内があります。

 

小机城址市民の森のマップ

 

敷地内には、所々にベンチが設置されてるので疲れたら休憩できます。

 

小机城

小机城がいつ頃築かれたかは、ハッキリとは分かっていないようです。

小机城の名前が歴史に登場したのは、1476年から1480年に起こった長尾景春の乱です。

長尾景春は、山内上杉家の家臣でしたが、祖父・父と続いた家宰(家を取り仕切る人)になれなかったことから不満を抱いて反乱を起こしました。

このとき小机城が戦場となり、太田道灌の攻撃で小机城は落城したとされています。

 

北条氏綱(後北条氏の2代目)がこの地を支配したことで、小机城は修復・整備されました。

後北条氏は、宿老の笠原信為を城代として派遣し、小机の地を支配させました。

 

1590年に豊臣秀吉によって北条氏征伐が行われたため、後北条氏は滅亡します。

後北条氏の後に関東を治めたのが徳川家康ですが、その際に小机城は廃城となりました。

 

小机城址へ

それでは、小机城址を散策してみます。

敷地内は、竹が多く、竹林の中を進んで行く感じです。

報国寺ほどではありませんが、竹の本数は多いと感じました。

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敵からの侵入を防ぐための「空堀」です。水が張ってある堀は水堀といわれますが、水がないので空堀といいます。

 

中世のお城なんて大したことないと思ってましたが、思ったより広いと感じました。

小机城は大きい城だったのかもしれませんね。

 

竹の城と呼んでもいいくらい竹が多いです。

 

途中にある空堀についての解説です。

「本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗するための堀で、この城址では、堀上部の幅十二.七メートル、堀底の幅五.〇メートル、深さ一二.〇メートルからなる水をはらない堀です。

空堀の堀幅や深さはまちまちですが、調査によると、中世の山城は三.〇メートル、平山城は九.〇メートルから一二メートルがその平均の堀幅になっています。」と書いてあります。

 

本丸広場

本丸とは城の中心のことで、一般的には城主がいる場所です。

合戦が始まると本丸が戦闘指揮の中心となるなど、本丸は城で最も重要な場所といえます。

 

広場近くの看板には、「小机城は調査実績が少ないため、ここが必ずしも本丸とは限らない」といったことが書かれてました。まだ解明されてないことも多そうです。

 

訪れたときの本丸広場にブルーシートが敷かれてありましたが、これが何を意味するのか素人には分かりません。

 

 

本丸近くにあった「小机城について」の解説には、築城はおそらく12世紀以降ではないかとあります。

城は文明十年(1478)攻め落とされ、後北条の領地となってからは40年間廃城となりました。

大永四年(1524)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興されます。

小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあったため、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。

豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は再び廃城、その歴史を閉じることになりました。

 

せいろう(井楼)あと

本丸跡から二の丸跡に向かう途中には、「せいろうあと」があります。

せいろうとは、敵の侵入を発見する見張台をいいます。

 

土塁についての解説です。

土塁とは、土を積んで築いた防備壁をいいます。

 

城マニアだったら横浜市内にある城址の分布図は必見です。

「中世(九世紀~十五世紀)に築かれた城は、天然の地形を利用し、小机城で理解できるように、半島状に突き出た丘陵や台地の先端部を城地したものが多く、その設備も櫓(やぐら)、木柵などのほか小規模な土塁(どるい)や空堀(からぼり)の共なう程度で、居館・住館は多くは城外にありました。

横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。

また、中世の城郭は、近世に築かれた大規模な「城」とはその機能・性格が異なるものと考えられ、城郭史の上でも比較的未開拓の分野と言われています。」

 

富士仙元

第三京浜の向こうには、「富士仙元」と呼ばれる場所があります。

富士仙元へは、第三京浜の下のトンネルを通って行きます。

小机城の跡地を分断するように第三京浜が走っています。

 

富士仙元へは、階段を上って行きます。

 

富士仙元大菩薩の碑です。

富士仙元は、富士信仰に基づいて、富士山に見立て作られた山や塚をいいます。

 

木が邪魔しなければ、眺めは悪くないです。

 

交通アクセスデータ

場所 神奈川県横浜市港北区小机町

アクセス JR横浜線「小机駅」から徒歩11分

 

 

小机城址市民の森のまとめ

小机城址市民の森では、現在も中世の面影を残す空堀や土塁などが見学できます。

小机城址は、40分程度で一通り見学することができます。

中世の城郭は、研究調査が未開拓の分野といわれ、本丸や二の丸までは断定できないとのことです。

国や県の史跡に指定されてませんが、貴重な史跡です。

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