鎌倉の扇ヶ谷の地は、源頼朝の父である義朝の屋敷があったり、源氏山公園があったりと鎌倉の中でも源氏と縁が深いエリアです。
扇ヶ谷には、鎌倉五山第三位の寿福寺や浄光明寺といった古刹も多いですが、今回は「海蔵寺」を訪ねました。
扇谷山海蔵寺の歴史
海蔵寺は、鎌倉駅から寿福寺の前を通って線路沿いに進んで行った先の谷間にある寺院です。
山号を扇谷山といい、花の寺としても有名な臨済宗建長寺派の古刹です。
周りは小さな山に囲まれていますが、谷戸の多い鎌倉では割とよく見る光景です。
海蔵寺の縁起によれば、もともと真言宗の寺院があったこの谷に、建長五年(1253)に宗尊親王の命を受けた藤原仲能が本願主となって七堂伽藍を建てたことから始まります。
建物は鎌倉幕府の滅亡時に焼失していまいましたが、応永元年(1395)4月に鎌倉の足利氏満の命を受けた上杉氏定が、開山に源翁禅師(心昭空外)を招いて海蔵寺として再建しました。
海蔵寺には、那須の殺生石、啼薬師伝説などの伝説があります。また、鎌倉十井の一つや十六井戸といった水と縁がある寺院です。
訪れた日は少し早かったですが、ここは紅葉も見事です。写真中央が海蔵寺入口で、右に鎌倉十井の一つである底脱の井があります。
海蔵寺の鐘です。
本堂の龍護堂は、大正十二年(1923)に震災で倒壊しましたが、十四年に再建されました。
海蔵寺は、開運や病気といったご利益があるといわれるパワースポットです。
仏殿には、本尊の薬師三尊像に加えて、十二神将像や伽藍神像等も安置されています。
薬師如来像が安置されている仏殿(薬師堂)です。
薬師如来像は啼薬師(なきやくし)・児護薬師(こもりやくし)とも呼ばれており、次の伝説が伝わっています。
ある年のこと、寺の背後の山麓から何とも悲しげな赤児の啼き声が、毎夜のように開山(玄翁)禅師の耳をとらえた。開山が声の主をたずねていくと、啼き声は古ぼけた墓石の下から聞こえる。しかも、墓域からは金色の光がもれ輝き、あたりに芳香がただよっていた。
そこで開山は、おもむろに経を読み、袈裟をぬいで墓を覆ってみると、不思議にも赤児の啼き声が止んでしまう。翌日、人を遣わしてその所を掘ってみると、立派な薬師様の御顔を得たのだった。
奇瑞なことだと深く感じた開山は、新たに薬師如来像を造立し、発掘した御顔を胎内に納めて祀ることにしたのである。以来、胸中の像は六十一年目に開帳するのを慣わしにして今日に至った。
パンフレット「薬師如来像と伝説」より
また、開山の源翁禅師は「那須野の殺生石」の伝説があります。
昔、鳥羽天皇が奇怪な病気に悩まされた原因が寵姫玉藻の前に化けていた白狐の仕業と分かるや、白狐は東国下野(しもつけ・今の栃木県)に逃走した。天皇は、三浦義明をもってこれを那須野原に殺させたが、のちに、白狐の霊は石と化して人々を苦しめ始める。石に触ったすべての生物が死んでしまうので、当時の人々は、これを殺生石と呼んで恐れおののいたという。
パンフレット「開山と殺生石」より
学生の頃、建築現場で働きながら学校に通いましたが、大工にとってかなづちはもっとも馴染みある道具の一つです。
かなづちは玄能とも呼ばれていますが、この名は海蔵寺の開山に由来するそうです。
開山の玄翁禅師は那須野に脚を入れると殺生石の辺りには白骨が山のようになっていた。禅師はおもむろに経文をとなえながら念力をこめた杖をもって石に一撃を加えると、石はたちまち砕け散り、以来、石の霊は成仏して人々は安穏に暮らすことができたというのである。
以上が殺生石の伝説ですが、謡曲の殺生石にも語られています。
本堂の背後には、心字池と呼ばれる池を中心に禅宗風の瀟洒な庭園が整備されていますが、非公開でこれより先に行けません。
海蔵寺は花の寺
海蔵寺の境内には、日本ズイセン、ユキヤナギ、カイドウ、ヤマブキ、ハナショウブ、ハギ、サザンカ、マンリョウなど数十種を超える花が植えられていて、一年を通じて様々な花が見れることから、花の寺とも呼ばれています。
とくに有名なのは、カイドウ(4月)とハギ(9月)です。
海蔵寺の山門です。9月に訪れると階段の両脇にハギが咲きます。2019年11月7日にも訪れましたが、その時にはなくなってました。
9月末頃に訪れた時はちょっと枯れてました。
境内には様々な種類の花が植えてあって落ち着ける雰囲気でリラックスできます。
駅から遠いので観光客は少なめですが、個人的に好きな寺院の一つで何度も足を運んでます。
底脱けの井と十六井戸
海蔵寺の山門手前には、鎌倉十井の一つ底脱の井があります。
弘安八年(1285)、鎌倉幕府の重要な地位にあった安達泰盛は、勢力争いによって平頼綱に襲撃されて討たれました。
この事件(霜月騒動)の後は頼綱が威勢を振うことになり、安達一族の多くが滅ぼされました。
金沢顕時は北条一門でしたが、頼綱を恐れて安達泰盛の娘であった妻の千代能を離別しました。
顕時に離別された千代能は、無著禅尼となって海蔵寺に移りました。
千代能が井戸から水を汲むと桶の底が抜けて水がこぼれてしまいました。
その時に詠んだのが「千代能が いただく桶の底脱て 水たまらねば 月もやどらず」です。
井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(底脱の井の看板から)。
境内に入り、100円を納めれば十六井戸も見学できます。
ここで100円を払って十六井戸を観に行きます。
十六井戸だけ少し離れた場所にあります。
十六井戸へは住宅地を少しだけ歩いていきます。
この岩窟の中にあるのが鎌倉時代のものといわれる井戸です。その名の通り十六の穴が並んでいます。
岩窟の中をのぞくと十六戸の井戸が並んでます。奥には石造の観音菩薩像が安置され、その下には弘法大使の像もあります。
察するに、その数十六とは、十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現しているもので、その菩薩に供え捧げる水が閼伽という功徳水である。
パンフレット「十六井戸」より
海蔵寺へのアクセスと無料の駐車場
住所 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18−8 |
交通 | JR「鎌倉駅」から徒歩18分 |
拝観時間 | 9:30~16:00 |
鎌倉の寺院は駐車場がないところが多いですが、海蔵寺には無料の駐車場があります。
海蔵寺の駐車場はそこそこ広いので、平日であれば空きがあると思います。
源頼朝の娘大姫の守本尊を安置する岩船地蔵堂
海蔵寺を出て真っすぐ歩くと数分で高架下に出るので、そこをくぐってさらに進むと岩船地蔵堂があります。
岩船地蔵堂の角を曲がって亀ヶ谷切通しを通って行けば、北鎌倉に出ることができます。
岩船地蔵堂には、源頼朝の息女大姫の守本尊である岩船地蔵尊が安置されています。
1184年に木曽義仲が頼朝に派遣された範頼・義経と戦って敗死すると、人質であった義仲の嫡男義高は鎌倉を脱出することを決意しましたが、途中で追手によって討たれてしまいます。
木曽義仲の嫡男・清水義高は大姫の許婚だったので、義高の死を知った大姫はショックで食事ものどを通らなくなり、鬱を発して数年後の建久八年(1197)に20歳で病死してしまいました。
「亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。」
「北条九代記にも、許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。」
扇谷山海蔵寺のまとめ
・山号 扇谷山
・本尊 薬師如来(別名啼薬師、児護薬師)
・開基 藤原仲能
・中興 上杉氏定、源翁禅師(心昭空外)
・見所 底脱の井、十六井戸、カイドウ・ハギを中心にした花の寺
海蔵寺を見学した後、稲村ケ崎でシートを敷いて、江の島を眺めながら過ごしました。