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横浜の「馬車道」で文明開化の歴史に触れよう

投稿日:2019年4月13日 更新日:

横浜に「馬車道」と呼ばれる通りがあります。

馬車道には、ガス灯や街路樹といった日本最初のものがあり、文明開化によって急速に近代化した歴史を感じることができます。

馬車道の通り沿いには、開港当時の面影を今に残す建築物もいくつかあります。

馬車道を散策して文明開化の歴史に触れてみませんか。

馬車道の由来

「馬車道」の名前の由来は、昔関内にあった居留地に住む外国人の馬車や、日本で最初といわれる乗り合い馬車の通りであったことからといわれてます。

道沿いに並ぶ外灯には馬車道の文字が入ってます。「外灯までしゃれてます」

 

馬車道では馬をモチーフにしたものをいくつか見かけます。

 

通り沿いに設置されているベンチにも馬の絵があって洒落てます。

 

幕末の日本がペリーによって開国させられた後、吉田橋には関門が設けられました。

関門から山下公園や馬車道がある開港場側を「関内」と呼び、伊勢佐木町などの関内から見たら外側は「関外」と呼ばれました。

開国後、木橋だった吉田橋はイギリス人技師のR・H・プラントによって、日本で2番目となる鉄橋が架けられました。

 

伊勢佐木商店街の入り口近くに横浜市教委区委員会による「吉田橋関門跡」の解説があります。

「安政六年(1859)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。 

吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。

関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)「二月に吉田町側に移設されました。

関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。 」

 

関内の名前は現在でも使用されて駅名にもなっていますが、関外の方は聞きません。

 

文明開化の足跡

馬車道沿いには、明治の横浜の文明開化の足跡が分かる碑が多数あります。吉田橋から万国橋に向かって歩いて歴史をたどろうと思います。

 

吉田橋から万国橋方面に少し進むと、左側に馬車道ひろばと呼ばれる広めの歩道があります。

馬車道ひろばには「近代街路樹発祥之地」と記された碑があります。

街に樹を植えるようになったのは、この馬車道が最初のようです。

 

馬車道の交差点です。この交差点を左に行くと桜木町駅に出て、右に曲がると横浜スタジアムや旧横浜市庁舎に出ます。

 

太陽の母子像のあるこの場所がアイスクリーム発祥の地といわれてます。前にディスクユニオンがあります。

 

関内ホールの近くには、日本で最初のガス灯を復元したものが立っています

「安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。

ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。

このたび、横浜市市民文化会館(関内ホール)新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。

壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。

昭和61年9月27日馬車道商店街協同組合」

 

下岡蓮杖は、1862年に馬車道で写真館を開業しました。下岡蓮杖は日本写真の祖といわれている人です。

「嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。

弘化二年(1845)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖下岡蓮杖その人である。

蓮杖は、来日の外交人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し、その後、弁天通りに進出し、慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。

数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみたのである。」

 

馬車道の近代建築物

明治13年(1880)に、貿易金融を専門に扱う横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)が開業しました。

横浜正金銀行の建物は、その後改装されて現在は県立歴史博物館として利用されています。

 

横浜正金銀行は、大正8年には世界3大為替銀行の一つにまで数えられるようになりました。

横浜正金銀行があった建物は現在、国の重要文化財に指定されています。

 

 

当時の建築様式を見ることができる旧川崎銀行横浜支店のビルです。

 

関内駅から馬車道駅へ進んでいくと、みなとみらい線の馬車道駅があります。

馬車道駅付近にも、旧富士銀行横浜支店(現在は東京芸術大学大学院)や、横浜生糸検査所(現在は横浜第二合同庁舎)、横浜銀行本店別館などの歴史ある近代建築物が見れます。

旧富士銀行があった建物です。現在は東京芸術大学大学院に利用されています。

 

横浜銀行別館になります。この建物は、1929年に第一銀行横浜支店として建設された建物です。

 

現在、横浜第二合同庁舎として使用されている建物は、横浜生糸検査所として使用されてました。

明治になると生糸産業が盛んになり、日本は世界一の輸出国となりました。

日本から世界に輸出する生糸のほとんどは横浜港から出ていき、横浜港は好景気に沸いたといわれてます。

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万国橋です。

 

万国橋の上からは、みなとみらいや汽車道が良く見えます。反対側のプロムナードも桜がきれいでした。

 

馬車道のまとめ

・馬車道は、居留地の外国人の馬車や、乗り合い馬車があったことから名づけられました。

・短いながら馬車道から日本で最初のものがいくつも誕生しています。

・明治時代に建築された横浜らしさあふれる建築物が残っています。

  • この記事を書いた人

侍従川

横浜で不動産仲介業とァイナンシャルプランナーをしています。

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