横須賀は、2013年に転出数が全国1位を記録するなど、人口減少が問題となっているが、都心から1時間で行けるということもあって、気軽に行ける観光スポットとして人気だ。
横須賀は、中世は三浦氏の拠点として、江戸時代は浦賀奉行が置かれて栄えた。
明治には横須賀は海軍の軍都として発展し、現在も横須賀には自衛隊関連の施設が多く置かれている。
横須賀市は、東と西に海岸線があるように、海に関する歴史が多数残っている。
今回は、「横須賀集客促進実行委員会」が発行しているパンフレットを手に、横須賀市の東側の馬堀海岸沿いを散策してみた。
目次
馬堀海岸から観音崎へ
京浜急行線の「馬堀海岸駅」から、海沿いの道を通って観音崎まで行ってみた。
途中で寄ったのは、「馬堀海岸よこすか海岸通り(うみかぜの路)」「旧水道トンネル」「馬頭観音」「走水水源地」「破崎緑地」「御所ヶ崎」「走水神社」「横須賀美術館」「県立観音崎公園」である。
今回の散策ルートは、上の画像の赤い線
馬堀海岸駅
馬堀海岸駅は、横須賀市にある京浜急行線の駅の一つで、夏は海水浴客でにぎわう。
駅は、メイン通りから1本入った場所にあるが、近くにはスーパーや飲食店もある。
少し海岸に進むと区画整備された住宅地がある。
馬堀海岸駅は、メイン通りから1本入っている。
馬堀海岸よこすか海岸通り
馬堀海岸駅を出て北に進むと東京湾が見えてくる。
海岸沿いには、東京湾を一望できる遊歩道があり、天気が良ければそこから横浜ベイブリッジや房総半島の建物を望むことができる。
パンフレットによれば、「遊歩道に埋めてある大きな石は、住宅地を水害から守るために、国内初の面的防護による高潮対策の護岸となっているから」だそうだ。
2006年10月に「水辺のユニバーサルデザイン大賞」を受賞している。
馬堀海岸は、横須賀よりも房総半島の富津のほうが近いため、房総の建物も良く見える。
天気が良い日はランドマークタワーも望める。
遊歩道には、たくさんの大きな石が置かれてある。
海は近いが釣り向きではない。
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旧水道トンネル
旧水道トンネルは、造船所の用水を確保するための水道管を通すために作られたトンネル。
二つのトンネルが続いている。歩いてみたら思ったより長かった。
旧水道トンネルは明治9年に建築され、明治16年に拡張された歴史あるトンネル。
旧水道トンネルは、横須賀・横浜では有名なフランス人技師ヴェルニーが計画して作られたようだ。
馬頭観音
馬堀小学校の前の浄林寺の坂の上には、馬堀の名前の由来になったといわれている「馬頭観音堂」がある。
案内板によれば、上総(現在の千葉県)から浦賀水道を泳いで渡った荒馬が、蹄で土手を掘ったところ、清水が湧き出したため、そこを「蹄の井」と呼び、この地は馬堀と呼ばれるようになったという。
馬頭観音堂案内板
「平安末期、上総国(千葉)の暴れ馬が村民に追われ浦賀水道を泳ぎ渡り、小原台に着いたという伝承があります。のどが渇いた荒馬は蹄で地を掘ると清水が湧き出し、のどを潤すと駿馬に変わりました。そこを「蹄の井」と呼び、「馬堀」の地名の由来となりました。
馬は美女鹿毛とと呼ばれ、衣笠城主・三浦義澄から源頼朝に献上され生唼と名付けられたといいます。
後に宇治川の合戦で、佐々木信綱は生唼を拝領し梶原景季の磨墨と先陣争いをしたといわれます。
堂には馬の蹄鉄や手綱が奉納され、競馬の騎手が必勝祈願に訪れています。
浄林寺の本堂には馬頭観音が祀られています。」
ここが入口で、奥の階段を上った先に馬頭観音堂がある。
馬頭観世音菩薩縁起
「当山一帯の地は古来より観世音菩薩のご出現になられる霊地であると言い伝えられて参りました。
その昔房州嶺岡に「今の千葉県江見町のあたり」に凶暴な馬が現れ住みつき村人はこの馬を「荒潮」と名付け恐れて近寄りませんでした。
しかしこの馬がしだいに畑の作物を荒らすので村人が追い払うことを決めました。
馬は村人から逃げ海中に飛び込み当時の相模の国、小原台の地にたどり着きました。
馬は疲れと渇きを癒すため傍らの岩を足で掘った処、清水が湧きだしその水で渇きをいやし見事な駿馬に生まれ変わりました。
この噂を聞いた時の領主三浦荒次郎義澄はこの馬を捕獲し時の将軍源頼朝公に献上したところ大変お慶びになられ、「池月」と命名されました。
寿永二年、宇治川の合戦に際し頼朝公はこの池月を佐々木四郎高綱に与えられ「平家物語」に語られるように梶原景孝の愛馬「磨墨」と先陣の争いとなりこの世に名声を残すことになりました。
当初の馬堀という地名はこれより起こり、馬の掘った井戸は霊水が今も尚尽きることがありません。」
ここが蹄の井の跡のよう。
馬頭観世音
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走水水源地
走水水源地は、横須賀水道の始まりの水源地として知られており、桜の開花時期には一般公開される。
走水水源地は、国の有形文化財にも指定されている。
走水の湧水は、ミネラルを豊富に含み美味しいことでも有名。
通り沿いは、桜の名所としても知られている。
破崎緑地
うみかぜの路を観音崎に進んで行き、上り坂を上った場所にあるのが「破崎緑地」の展望台。
展望台にはベンチ置かれてある。
展望台からは、馬堀海岸や横須賀の港を見ることができる。天気が良ければ、富士山が見えることもある。
御所ヶ崎
破崎緑地から坂を少し下ると、左に「御所ヶ崎」と呼ばれる場所がある。
御所ヶ崎は、日本武尊が上総に渡った場所という伝説がある。
上総に渡る際に、仮の御所を設け、軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼ばれるようになった。
「横須賀風物百選 御所ヶ崎」の案内柱
公園の名前は「旗山崎公園」という。
走水奉行なんてものもあったそうだ。
この岬から日本武尊が旅立ったそうだ。
公園の左手には、走水小学校がある。
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走水神社
走水神社の歴史は古く、日本武尊の伝説がある。
走水神社は、横須賀随一のパワースポットといわれ、恋愛運や夫婦関係に効果があるとか。
横須賀風物百選 走水神社案内板
「走水の地名は、すでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。大和朝廷の時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。
走水の祭神は、日本武尊とその后、弟橘媛命の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったので、わかりません。伝説では、景行天皇の即位40年(110)東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃(いしびつ)に納めて、その上に社殿を建て、尊を敬ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れて、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えた弟橘媛命は、
さねさし さがむのをねに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも
の歌を残し、尊に代ってうみに身を投じ、風海を鎮めました。
弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治42年、この神社に祭られました。
明治43年6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など7名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、船海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人・大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられたものです。」
包丁塚は、昭和48年に作られた。
ご神木
水神社の社
階段を上ると「拝殿」がある。
階段を上って振り返ると、走水の海が見える。素晴らしい光景。
稲荷大明神、周りにはきつねの人形が置いてあった。
「別宮」
日本武尊が上総に渡る際、海が荒れて船が沈みそうになったため、弟橘媛命が海の怒りを鎮めるために海に身を投げた。すると、海は静まって日本武尊は上総に上陸できたという。弟橘媛命が海に身を投げる際に一緒に身を投げた侍女を祀ってあるそうだ。
さらに奥へと続く階段がある。
「古代稲荷社」110年10月、日本武尊一行が上総に渡る際に蝦夷征討を祈願した場所と伝わる。
奥まで行くと、「須賀神社」「神明社」「諏訪神社」の三社がある。
横須賀美術館
走水から観音崎の通り沿いに「横須賀美術館」がある。
横須賀美術館は、横須賀と縁のある作品を多く展示している。
屋上からは、東京湾を行き交う船や房総半島を眺めることができる。
横須賀美術館の前に立ってる「横須賀風物百選 観音崎公園」の柱
県立観音崎公園
横須賀から観音崎までの海辺の道は「うみかぜの路」と呼ばれている。
終点の観音崎には、大きな県立公園「県立観音崎公園」がある。
県立観音崎公園は、「かながわの景勝50選」にも選ばれており、バーベキューもできる。
公園内には、日本最初の洋式灯台があり、明治に作られた洋式砲台の跡も残っている。
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観音崎灯台から見える東京湾の眺望は素晴らしい!
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観音崎の海は、海の水がきれい。
海の向こうには房総半島が見える。
登ることができる観音崎灯台。
さいごに
馬堀海岸駅から観音崎までは、約7キロなので1日もかからずまわることができる。
馬堀海岸にある横須賀温泉「湯楽の里」に入ってから帰るのもおすすめ。